藤尾峠から暗峠への道を行くと、峠手前の崖に
阿弥陀三尊磨崖仏が刻まれています。
奈良県生駒市西畑町
花崗岩の岩肌に舟形光背を彫くぼめ
蓮華座に立つ来迎印阿弥陀像を刻み
左右月輪内に観音・勢至両菩薩の種子が刻まれています。
鎌倉時代後期の造立と考えられています。
古の時代から今も尚、往来する人の道中を見守って・・・
藤尾峠から暗峠への道を行くと、峠手前の崖に
阿弥陀三尊磨崖仏が刻まれています。
奈良県生駒市西畑町
花崗岩の岩肌に舟形光背を彫くぼめ
蓮華座に立つ来迎印阿弥陀像を刻み
左右月輪内に観音・勢至両菩薩の種子が刻まれています。
鎌倉時代後期の造立と考えられています。
古の時代から今も尚、往来する人の道中を見守って・・・
せっかく行っても何が何やらよく判らない大門の磨崖十三仏。
暗峠の帰りに寄って、再撮影して来ました。
奈良県生駒市大門町
球状岩に舟形を彫り込んだ中に、中央に虚空蔵・金剛界大日・釈迦の三尊の像容を
右に種子で阿閦・薬師・弥勒・地蔵・不動を
左に弥陀・勢至・観音・普賢・文殊を刻んで十三仏としています。
十三仏としては特殊な形で珍しいもの。
舟形右外側に天正十一年十月十五日(1583年安土桃山時代)と刻まれているのが確認できます。
堂内の照明だけでも撮影は可能ですが
どうしても納得いく写真が撮れなかった
漸くの再訪です・・・
奈良県奈良市二名町
十一面観音磨崖仏・建武三年銘(1336年 南北朝時代前期)
不動明王磨崖仏・文明元年銘(1469年 室町時代中期)
磨崖仏の宝庫と云われる当尾の里の、個人宅敷地内に巨岩が聳え立ち
壁面に線刻で定印の阿弥陀如来座像が刻まれて居ると言う事で
喜び勇んで出かけて来ましたが・・・
ご覧の通り大岩が露出しているのみ。
肉眼では何と無く線が見えますが撮影してもこの程度しか見えません。
当時の私の撮影技術では如何にもならず
これでは記事にならないとお蔵入りしていた大磨崖仏・・・
撮影困難な大磨崖仏を何とか撮影する方法は無いものかと
試行錯誤の末、数年ぶりに撮影再挑戦した結果
肉眼では矢張り何にも見えない壁面に
定印の阿弥陀如来座像が
浮かび上がったのです!
久しぶりのこの気持ちの昂り
伝わるでしょうか・・・
推定南北朝時代
岩の間に湧水を湛えており
嘗てはがここが行場で有ったのかも知れません。
こんな大磨崖仏が人知れず当尾の里に在る事が不思議でならない・・・
当尾の里、東入口の辻に在る線刻弥勒如来磨崖仏。
余程条件が良くないと何が何やら分からない磨崖仏です。
上手く撮影できるかどうか分かりませんでしたが
何とか撮れたかな・・・
壺型彫り込みの中、仏身五尺六寸の美しい線刻をご覧下さい。
京都府加茂町岩船三大
前回、撮影不可だと思っていたのに
思いがけず撮影できてしまった曽爾村の地蔵磨崖仏。
もう少し綺麗に撮れないものかと思いつつ
ふらっと寄ってみたら
以前よりはましな写真が撮れました。
奈良県宇陀郡曽爾村長野
宝珠を捧げる左手の表現が特徴的です。
足下には線刻の蓮華座が刻まれていますが
堂内の窓枠により覗き込まないと見え無いのが残念です。
前回訪れた時は懐中電灯が貧弱だった為
お不動様が何と無くわかる程度にしか撮影出来なかったが
その時は撮影出来た事だけで嬉しかった山上不動磨崖仏。
その後何とか全体像を撮影してみたいと思っていましたが・・・
この度、四年ぶりに再訪して来ました。
滋賀県大津市山上町
銘文は 仁治三年 壬寅 八月廿八日(鎌倉時代中期)
願主 大法師□□
樹木が茂り過ぎて光が届かず、何時訪れても
本来のお姿を拝する事が出来ない下笠間阿弥陀磨崖仏。
大きな磨崖仏を照明撮影出来るのか如何か分かりませんでしたが・・・
案ずるより産むが易し。
薄暗さが幸いして全体を照らしだす事が出来ました。
頭光の放射光が特徴的な永仁の素晴らしい阿弥陀摩崖仏をご覧下さい。
奈良県宇陀郡室生村下笠間
銘文は永仁弐年(1294) 甲午 五月一日願主□□(鎌倉後期)
過去に盗難されかけて北出橋の袂から姿を消した一石六地蔵。
薄暗い所に移動され撮影困難でしたが、久しぶりに撮影してきました。
以前無かった懐かしの辻蝋燭も見る事が出来ました。
奈良県奈良市阪原町
明応五年(1496年)十月二十四日銘
室生ダム満水時には水没して、その姿を隠してしまう地蔵磨崖仏。
舟形光背外側の左右に閻魔王と太山王が線刻されているようですが
自然光では殆ど見えませんので、照明撮影してきました。
奈良県宇陀郡榛原町山辺三
建長六年甲寅 八月十五日造(1254年 鎌倉時代中期)銘
素晴らしい磨崖仏ですが、今回の目的は・・・
向かって右側に刻まれている太山王。
何とか分かるかな・・・
左側の閻魔王は照明でも撮影不可でした・・・
謹 賀 新 年
明けましておめでとうございます
本年もどうぞよろしくお願い致します
延慶二年己酉六月二十四日造立(1309年鎌倉時代後期)
年の初め、寝地蔵さんに立って頂きました。
昨年は撮影困難だった石仏や磨崖仏を
何とか撮影出来ないものかと
試行錯誤の一年でした。
さて、今年はどんな一年になるのやら・・・
以前訪れた時には見つける事が出来なかった
小さな小さな磨崖仏。
前のとは別の岩に五輪塔と共に、半ば埋もれて刻まれていました。
三重県名張市上長瀬
道路工事の為、この景色がもう直ぐ見られなくなりそう・・・
「えぇっ!他にも磨崖仏があるんですか!」
吊り橋近くの磨崖仏を撮影した後、近くの国津神社へ。
どんどの日だったので集落の方々が集まって居られました。
ご挨拶をして上長瀬庵へ。
程なく三、四名の方が入ってきて石仏話に花が咲いた。
「そこの吊り橋の墓地の所にも見に来る人いるよ。」
「あ、さっき行って来ました。」
「そう・・・」
「他にもあるよ。」
「・・・・・ん?」
「えぇっ!他にも磨崖仏があるんですか!」
想像すらしていなかた展開に気持ちが昂ります。
話を聞いただけでは位置を把握できていないだろうと
ご丁寧に現地までご案内頂きました。
思いもよらず未知の磨崖仏に出会う事が出来た幸せ・・・
まだまだ隠れているんだなぁと実感。
どうぞご覧ください。
三重県名張市上長瀬 羽後(ハノチ)
吊り橋の所の磨崖仏より少し大きい位のお地蔵さん。
車道が出来る以前はこの前の道を歩いていたのだろうか・・・
用水路の改修時に「何か彫ってある」と気付かれたそうです。
傍まで行って、ここって指差して頂かなければまず気付きません・・・
こんな所にも磨崖仏が・・・
丹生の千体地蔵磨崖仏から北へ行き、邑地町に入った辺り。
非常に分かり難い所に、磐座とも思われる巨岩が聳え
その壁面に地蔵菩薩が二基刻まれています。
奈良市邑地町
古道が残ってはいますが、寸断され斜面を攀じ登らないと古道を辿る事が出来ません。
古道にさえ上がる事が出来れば、道なりに磨崖仏へと辿り着けます。
左側の大きい方の岩に刻まれている地蔵菩薩。
江戸時代前期寛永七年銘が確認出来ます。
右側の岩に刻まれている地蔵菩薩。
像の左枠内に江戸時代前期延宝?九年銘が刻まれています。
左の地蔵から少し離れた所に
江戸時代後期文政二年福岡□□姓と刻まれており
嘗てはこの磨崖仏の前に福岡氏が居を構えていたと云う事です。
なぜ?こんな磨崖仏が今まで隠れていたのか・・・
布目ダム周辺はくまなく巡ったつもりでいましたしたが
こんな素晴らしい磨崖仏が人知れず隠れていました。
奈良県奈良市邑地町
紀年銘は有りませんが室町様式の三尺地蔵磨崖仏。
光背の左右に三茎蓮の華瓶が線刻されているのが珍しいです。
今でこそ比較的楽に到達できますが
ダムが出来る以前、下道からはかなりの高所にあった筈。
なぜこんな所に・・・
磐座かと思われる巨岩に刻まれています・・・
最早訪れる人も居ないのか・・・
柳生の里から笠置への集落外れにある有名な磨崖仏ですが
昨今、周辺の樹木が育ち過ぎて何時訪れても薄暗く
光量不足でまともな写真が撮れない状態でした。
その薄暗さを逆手に取って照明撮影して来たものです。
奈良市柳生町
照明により、はっきりと見える様にした事で
改めて良い磨崖仏だと言う事を実感しました・・・
最近見付けた古い資料に、桐山シリウチ坂登り口地蔵講田磨崖地蔵像
と記載されていました。
今まで聞いたことも無い磨崖仏が見付かるかもしれないと
期待して出かけましたが・・・
初回の探索はシリウチ坂が何処か分かっただけで
磨崖仏の情報すら得る事が出来ませんでした。
二度目の探索で偶々声を掛けて頂いた方が磨崖仏の事をご存じで
以前は供花もあったようですが、もう埋まってしまっていると。
場所を丁寧に教えて頂き現地を探しましたが何も無い。
ウロウロしていたら先程の方がたぶん分からないだろうと来て下さいました。
「ここ」と指差した所の斜面の草を土ごと削って頂いたら岩が現れたんですが・・・
岩は出て来ましたが地蔵さんは刻まれていません。
最早風化剥落して、消えてしまったものと諦めて帰宅しましたが
石友さんに場所だけでも教えようと何の期待もなく再度訪れた所・・・
何と!そこには地蔵像が!!
傍らには掘り起こされた土が盛られていました。
どうやら先日ご案内頂いた方が掘り出して下さったようです。感謝!
もう無くなってしまったものと一旦は諦めていたのに
この出会いはあまりにも衝撃的です。
二重蓮台に立つ持錫宝珠型のお地蔵さん。
像高一尺三寸。
何はともあれ残っていてくれた事に有り難うです。
側溝の中に埋まっている磨崖仏なんて初めてです。
よくまぁ覚えていて下さいました。
一体何年?いや何十年埋まっていたんだろう・・・